甘夏edu

育つ、育てる、育む、教育などなど、「育」関連のあれこれについて

子どもの作文をみる時に大事にしたいこと

先日、帰省した際に姪っこの読書感想文をみた。(lookのほうではなく、指導?手伝い?あれ、なんていうんだろう・・・。)

やってみて改めて思ったんだけど、作文のワークシートによくある「この物語の主題はなんですか」って、子どもにとっては本当に答えにくい質問だ。(「一番大事だと思った部分は」とか、「筆者が一番言いたいことは」とかも同様。)

子どもたちはそもそも、筆者に「言いたいこと」があると思って読んでないし、主題がどう、とかも思って読んでない。「一番」だってなかなか決められない。適当に選ぶことができなくていちいち真面目に考えてしまうタイプの子どもならなおさらだ。(そして姪っこはまさにそのタイプ・・・)

だいいち、「感想」というのは、あの場面でびっくりして、この場面では主人公がかわいそうだと思って、その場面では面白くて笑った、というようなことだろう。ならば、「感想文」だって、それを書けばいいんじゃないか。

「この場面で悲しくなった」「ここの場面は笑っちゃった」というようなことを、意味の通る文章で書ければまずはオッケーだし、「そう感じた理由や背景」がつけられたら上出来だ。「主題」なんて、明らかに周りの大人から借りてきたような、実感の薄い言葉はいらないと思う。

少なくとも、「読み取り」ではなくて「親しむ」ことを目的とした読書感想文において、子どもに「主題」を問うのは酷だ。できないからではなくて、そういうやり方を覚えさせてしまうことが、酷だと思う。

姪っこが選んだ本は「しあわせになったすてねこ」という、捨て猫保護活動のノンフィクションだった。保護活動の価値と一緒に、里親詐欺や殺処分といった暗い側面についても触れられている。ところが彼女は、なんと、その暗い部分を丸ごと読み飛ばしていた。こうなると、主題も何もない(笑)。
彼女は、読み飛ばしたわけを「こわかったから」と言った。それを聞いて、彼女が感じていたその「こわさ」のほうを言葉にしていくことが、「作文」というものの目的なのではないか、と思った。

「主題は何?」というテスト問題みたいな問いの答えよりも、どの場面でどんな風に心が動いたか、そしてそれはあなたにとってどんな体験だったのか。それを、わたしは、読みたい。

陰謀論とか黒幕説とか。

完全に息子用に買った「陰謀の日本中世史」(呉座勇一著)が面白い。歴史上の俗説通説(多くが陰謀論に紐づいている)に、歴史学の視点からひとつひとつツッコミを入れていく、という、地味〜な労作。


トンデモ科学同様、トンデモ史観というのも確実にあって、その構造も受容のされ方もほんとうに似てると感じる。「・・・って解釈するとすっきりするでしょ?だってこれが隠された真実だからなんだよ〜」みたいな話。でも、たいていの歴史的事件はいくつもの真実から成り立っているし、すべてを握る黒幕なんて存在しない。いろんな人たちの利害や思惑が絡んで、お互いに予想もしていなかった展開も含みながら進んでいくのが歴史なんだということを、この本は教えてくれている。


黒幕説や陰謀論が盛んになる裏には、「自分が圧倒的に損をしている」「裏でものすごく得をしている人がいる」という類の絶望があるんだと思う。なんとはなしの不平等感、不公平感、本来こうじゃないはず感。

でも、そういった絶望から自分を救うのは、「陰謀論」に加担して顔の見えない他者に責任を転嫁していくことではなく、わかりにくいこと、すっきりしないことから逃げずにきちんとした手続きをふんで調べたり考えたりし続ける、知的な体力なんだと思う。自分を「力をもたない被害者」に置いちゃったらだめだし、そうしないために、学問って有効だ。


中3の時の担任が「騙されないために勉強しろ!」ってよく言ってたけど、あれ、先生いいこと言ってたなあ。(もう一つ、「毒かどうかはちょっとなめてみろ、しびれたらやめろ」という使いどころがわからない名言がある笑)


まあそんな固い話は置いといても、「源頼朝源義経は不仲だった」とか「関ヶ原の戦い徳川家康の謀略」ってふつうに思ってる人、ぜひぜひ読んでみて!(雑)(地味って言ったけどビジュアルイメージはどうしたんだっていうくらい派手だったw)

天狼院スピードライティングの学びを子どもの自由研究に使った話

「天狼院スピードライティング講座」を受講した。

Facebookにたびたび上がってくるので気になっていて、勢いに任せて申し込んだのが6月。講座に行き損ね、オンラインの実況中継も見損ね、後日動画もシェアされていたのにそれすら見そびれて、昨日になってようやく見た。1ヶ月をゆうに越えての受講。「そりゃあスピード必要だろうねえ」というしかない状態である。


実は振り込んだお金を半ば捨てたつもりでいたのだけど、昨日突然「見るなら今。今しかない」と思った。それで、息子の塾の近くのファミレスで、お迎え時間までの間に一気に見た。もともと60パーセントしかなかった携帯の電池の残量が、終わる頃にはわずか4パーセントになっていた。

動画の内容について書くのは控えるけど、全編を通して刺さりまくる内容だった。早く書くことで得られること、書かない人がする言い訳、自分を「書ける状態」におくことについての責任。そのいくつかは、わたし自身も体験したことのあるものだった。プロの言葉で語られるそうした話のひとつひとつが、だらだらと動画視聴すら先延ばしにしてきたわたしを刺し、一方で元気づけてもくれた。早く書くための具体的でシンプルな工夫がたくさん聞けたのもよかった。


「わたしにもできるかもしれない」

そんな風に思って翌日の今日。わたしは得た学びを、自分のライティングよりも前に、息子の自由研究ライティングに使ってしまった(笑)。

早く書くことで得られること、書かない人がする言い訳、自分を「書ける状態」におくことについての責任。それに加えて、早く書くための具体的でシンプルな工夫。昨日聞いたばかりの話を得々としてシェアし、「じゃあ書いてごらん」と言ったら、息子は本当に「日光東照宮」についてのまとめ1000文字を1時間ちょっとで書き終えてしまった。
わたしはその横で、自分の原稿3000字を45分で書いた。

書き終えてから、「すごかったねえ」と、息子と驚きあった。文字数も(自分比で)だが、ひとことも口を聞かずに集中して書きまくった、その感覚は未知のものだったし、息子とそれを分かち合えた感じがした。

今、息子は夕方のお楽しみテレビを見ているところだ。彼はもう夏休みの宿題をあらかた終えてしまった。傍でこれを書いているわたしの中には、子どもと面白いことを分かち合えた喜びと一緒に、いや本当はこれを使ってもっとがりがり仕事したいんだなあたし、という気持ちとが、両方ある。

子どもと一緒の夏休み、残り25日。


街角の夏休み

子どもたちの夏休みに突入して3日目の平日。
彼らは午前中は家で過ごし、午後から児童館や図書館に出かけていく。バスに乗れば気に入りの小さい科学館もある。夏休みをきっかけに、自分たちの足ででかけられる先が増えそうだなと期待している。こういうところが東京のありがたいところだ。ちょっとした居場所がいっぱいあるのだ。

親子で幾度となく訪れたこうした場所を、子どもたちだけで利用するようになってきていることも、ちょっと感慨深い。一緒にでかけて、隣でちょこちょこと仕事を進めるのも、案外楽しかったりする。

今日は、次男の音楽教室の後、待ち合わせて駅併設のテラスで夕涼みをした。子どもたちはジュースで、わたしはビール・・・を飲みたいところだったけど併設のコンビニはアルコール類がなかったので、炭酸水で。空が見えて、夕方の雑踏も少し遠く、気持ちのいい時間を過ごした。こういう「半分外」みたいなところも、東京には案外たくさんある。

子ども達とまったり過ごすなら家の外がいい。場所が変わると、ふだんは聞かないような話が出てきたりする。今日はふたりともお稽古デイだったので、それぞれの習っているバイオリンと将棋の共通点・相違点についてふたりでもこもこと楽しそうにしゃべっていた。幼くても自分なりの視点をもって物事を捉えているし、それを伝えるのが楽しくてしかたないみたい。わたしも一瞬「おしゃべり仲間」になったような気がする。風通しがよく、広々としている。親と子の関係性をつかの間越えさせる力が、「夕方」という時間帯や、「半分外」のような場所にはあると思う。


この夏休み、もし煮詰まるようなことがあったらどんどん外に出よう。夏の終わりには、いろんな街角に、新しい「ちょっとした居場所」がたくさんできているといいと思う。

お母さんの笑顔は家族の笑顔・・・的な

「お母さんの笑顔は家族の笑顔」的なフレーズを、ここ1ヶ月で何回か聞いた。

この言葉、これまでも何度となく聞いてきている。聞くたびに、まあ間違っちゃいないんだろうけど、なんだかなあ、という気持ちになる。

数回聞くうちに、あることに気づいた。「お母さん」非当事者は、この話を「お母さんが笑ってることが大事だから、もっと自分が楽しいことをしていいんだよ」という文脈で語る。一方で、「お母さん」当事者は、「だから笑顔でいられるように(気持ちの安定を)頑張ろう」という文脈で語る。

同じ言葉が、まったく別の話になっている。

自由とか喜びについての話をしているつもりでも、それを家族が笑顔でいるための手段または条件として語ってしまうことで、受け取り手は「喜怒哀楽を隠して笑顔でいるべきだ」的な話として受け取ってしまう。この行き違いには、ちょっと注意が必要だと思う。

自分が楽しいことをするのに、本来理由はいらないはずだ。けれど、理由もなく「ただ楽しいことをする」に許可が出せない感覚が、両方にあるのかもしれない。し、それは「お母さん」だけじゃなく、いろんな人にあてはまるのかもしれないなあ、と思う。

わたしは、誰のためとかじゃなくて、笑いたい時に笑いたいし、それと同じように、怒りたい時には怒りたい。好きなことをする時も、好きじゃないけどする時も、自分が決めた、と思ってやりたい。

麦わらのかごを手放して百均のトレイに代えた話

台所に、ジップロックや使用前のスポンジ、ラップなどをしまうかごを置いていた。

 そのかごを、わたしはたしか就職してすぐの頃、下北沢の雑貨屋で買った。麦わら帽子に似た材質のそれは、中にものを入れるとぐにゃりと形を変える。割とすぐに自立しなくなったので、棚にもたせかけるようにして使った。柔らかすぎて中のものを出したり入れたりがしにくいので、かごの中はいつもなんとなくごちゃついていた。でも、遠目でみれば、雑誌で紹介されてる素敵な台所みたいに見える(ような気がする)ので、使い続けた。不便さには目をつぶった。

ある日唐突に、限界が来た。ジップロックの箱、ラップの筒、スポンジ・・・四角い形のそれらを四角いケースにきっちり納めたい衝動にかられ、手元にあった書類整理用のA4ケースに詰めかえてみる。すると、それまで、かごの形に合わせて変形したり端っこが折れ曲がったりしていた物が、ぴったり収まった。すっきりした。この快適さを、わたしはかなり長いこと我慢していたのだった。

雑貨を扱う本や雑誌は、すぐに古くなるプラスチックよりも、だんだん味わいが出てくる天然素材を推奨する。でも、実家の納戸に入れば百均のプラスチックかごが10年、20年選手で並んでいたりすることを、わたしは知っている。よいものを長く使うのはもちろん素敵だ。しかし、安くてカジュアルなものを長く使うのも、それはそれでけっこう味があると、わたしは思う。

百均のケースは、わたしの生活に機能性と気軽さをもたらしてくれた。かごの方は、ご近所への買い物かごとして使うことにした。(本来の用途に戻った、といえるかもしれない。)そしてわたしは、自分が百均のかごを無造作にチョイスするおばちゃんになりつつあることを、寂しくも、楽しくも感じているところだ。


図書館通い

久々に近所の図書館へ行って、本を借りてきた。

・小説2冊(よしもとばなな司馬遼太郎
洗顔だけで美肌になれる本
無印良品IKEAのグッズで整理収納する本
・白氏文集

ザッピングするような感覚で館内を巡って手に取った本は、わたしの今の脳内を表しているようだ。興味関心の方向がみごとにとっ散らかっている。

読んでみたって美肌にはならないかもしれないし(実際なったためしはないし)、IKEAは遠くて行かないかもしれない(行っても何を買えばいいのか分からないまま帰ることになるような気がする)。それでも、ちょっと見てみたい何か、可能性のようなものがどんな本の中にもある。図書館はそれを無造作に試せるところがいいと思う。

図書館からはそのまま公園に出られるようになっていて、のんびり歩きながら帰った。時々ベンチに座ってぱらぱら本をめくったり、空や樹木を眺めたりしながら、自分が満たされていると感じる。日曜の夕方にひとりでいること、帰れば家族の日常があること、バッグの中に、まだ読んでいない本が入っていること。

家に着く頃にはすっかりわくわくした気持ちになっていた。図書館を巡る小さな出来事が、わたしを、確かで温かい日常の方へと、少し押し出してくれた。