甘夏edu

育つ、育てる、育む、教育などなど、「育」関連のあれこれについて

勇気を出して書くということ

山田ズーニーさんの文章講座に出た友人が、講座から学んだこと、講座を通じて感じたことや発見したことをシェアする会を開いてくれた。

山田ズーニーさんを知ったのはおそらく長男を出産して1年くらいの頃で、国語の教師をしていて作文教育に興味があったわたしは、その時Amazonに出ていた本を片っ端から買って読んだ。たぶん買えるものは全部買ったと思う。その後、教育現場から離れたこともあり、本はほとんど売ったり人にあげたりしてしまった。

シェアの会は、講座の内容そのものではなく、体験した「学び」を中心にしている。「学び」は感動や発見を伴うのだ、ということをこんなに感じられる会はないと、参加するたびに思っている。

その日彼女が話してくれたことの中に、「勇気を出して書く」という話があった。実際にそうやって彼女が書いた文章のことも教えてもらって、わたしは自分に「勇気を出して書く」という体験がないことに気づいた。

勇気?書くことに??

そのふたつはまったく結びつかないようにわたしには思え、その場でも「今まで、勇気を出してものを書いたことはないなあ〜」と、言った。

一緒に参加していた仲間がそれに対していろいろな問いかけをしてくれて、わたしは答えながら、自分の言葉がどんどんずれていくのを感じていた。そんなつもりはないのに、言葉にした瞬間、嘘になっていってしまう。

「書けちゃうからこそかもしれないね」

とひとりの仲間がくれた言葉にすがりつくようにして、自分が文章をあまり考えないで書いてしまうこと、短い文章ばかり書くこと、文を書くのは好きだけど、触れても痛くないようなことしか書いていないこと、などを話したと思う。「でも本当はなんか伝えたいから書いてるんでしょうねー」と他人事みたいに話してから、(いや、触れて痛いような「本当に伝えたいこと」なんて、わたしにはないのかもしれないなあ・・・)と、内心やや半泣きになりながら思い、そこに座っていた。

その疑問が、一日経って氷解した。

(きのう話題に出ていたズーニーさんの本を買おう)と思ってから、試しにクローゼットの中のダンボールを開けたら、そこにちゃんとあった。そうだ、わたしこれ持ってたし、捨ててなかったんだ、と思い、なぜわたしがズーニーさんの本を手放したのかまで、思い出してしまった。

あんまり考えなくても「書けちゃう」自分の小器用さがよくないのか・・・なんて思っていたわたしはほんとうに甘かった。わたしはまさにその「いい感じに書けちゃう」自分を、全力で握りしめていたんだった。なぜなら、わたしがそんな風にスマートに(?)振る舞えるのは、唯一「書くこと」でだけだったからだ。

小さい頃から、わたしはとにかく不器用な子どもだった。絵を描けば色が混ざって汚くなり、習字の時間には手が真っ黒になった。誰かと話そうとするとどきどきして声がひっくり返るのに、話し出すと嬉しくなって余計なことまでぺらぺら話してしまう。談笑する女の子グループの輪にどう加わったらいいかわからず、せめてそっとすれ違おうとすれば間違って足を踏んだ(にらまれた)。

不器用で不格好で、何をやってもうまくいかない、と思っていたわたしが唯一、人並みにできたのが作文だった。作文なら、ひとりで、好きなように、落ち着いて、時間をかけてやれる。道具もシンプルで失敗が少ない。わたしは作文を書くことに没頭し、いろんなコンクールで入賞するようになった。何に没頭していたのかといえば、「ここでだけ、スマートにふるまえる自分」にだ。不格好さがだだ漏れのわたしが、自分の表現を思うようにコントロールできる唯一の場所が、「作文」だった。

そうだ。わたしは長いこと、不格好な自分を隠すために文章を書いていた。表現のためのツールを、自分の真実を隠すために使ってきた。そんなわたしに、ズーニーさんの「本当のことを書こうよ!」というメッセージは、真っ直ぐすぎたし、眩しすぎたし、重すぎた。だから、憧れて全部集めて、そのあと全部手放したんだった。

このあふれんばかりの(笑)不格好さを隠すことができれば、誰かとつながれると思っていた。現実は逆で、隠そうとすればするほど、誰よりも自分が自分から遠ざかっていく。でも本当は、不格好なままでここにいたい。

シェア会の中で友人が教えてくれた、彼女の書いた文章はほんとうに美しかった。でももしかしたらそれだって文章になる前は、彼女の中の不格好な一部分だったのかもしれない。その可能性に思いをはせてみて初めて、わたしは「勇気」の力点を少しだけつかんだような気がした。不格好なままでここにいること。その自分から言葉を引っ張り出すこと。

それに気づいてわたしは少し泣いた。書くことは苦しい作業だけれども、その先にはぱーっと花が咲くような喜びが待っている、確かに。