「愛されていない」と君は言うだろう
このところ、兄弟げんかが増えている。
そもそも四六時中ずっと絡んでるからなんだろうけど、ちょっとしたことですぐけんかになる。仲裁する気持ちなんてとっくの昔に消え去っていて、わたしは、ふたりのやりとりをただただぼーっと聞いている。
互いに投げつけ合っている言葉の行方を追っているとどうやら特徴があって、兄のほうは「いい子ぶってお母さんにとり入るなよ!」というところに、弟のほうは「ぼくのことをばかにするなよ!」というところに、だいたい行き着いていることに気づく。兄のほうには「のけものにされる」、弟のほうには「小さく扱われる」ことへの恐れがあるんだなあ、と思う。ちなみにこれは、兄弟げんか以外でも何かと発動する。叱られた時とか、何かがうまくいかない時とか。
リスニングや場づくりの勉強をしている時に、人は「わたしはこうだ」とか「いつもこうなる」みたいな思い込みを持っている、ということを学んだ。思い込み、とか信念、とかメンタルモデル、とか、いろんな名前がついている。
それらはだいたい過去の体験から来るもので、かなり小さい頃の体験が根っこにあることも多い。小さい頃の体験なんて主要な登場人物が限定されているもので、メンタルモデルについて語る人が「母に愛されてなかったんだ」という話をする場面に、何度も遭遇した。だいたい犯人はお母さん、ついでお父さんだ。
兄弟のことに話を戻せば、ふたりの中にはすでに、「ぼくはひとりぼっちだ」「ぼくは小さく扱われる」といった思い込みが着々と育っているのを感じる。「この子とは関わりたくない」とか「この子は取るに足らない存在だ」なんて風に思ったことはもちろんないけれども、でも、彼らがそう思うに至った出来事については身に覚えがありすぎる。
母であるわたしは、きっといろいろやらかしている。「自立してるなあすばらしい」とか「ピュアだなあ素敵」みたいな感嘆や愛情からやらかしていることもあるだろうし、ただたんに配慮が足りなくてやらかしていることもあるだろう。「この子はこうだよな」という決めつけだってたくさん持っている。まあ、それは仕方ない。不完全ながらも精いっぱいやってるのでご容赦ください、というしかない。
いつか彼らも、自分の中の思い込み(or信念orメンタルモデル)と向き合うことがあるかもしれない。わたしの知らない誰かの前で「ぼくはお母さんに愛されてなかった」とか、話すのかもしれない。おいおい勘弁してくれよ、という気持ちもあるけれど、「まあ、好きなように使っていいよ」という気持ちもある。
もし彼らが勇気を出して、「お母さんぼくのことどう思ってる?」って尋ねてくれる日がきたら、その時には思いっきり、自分の中にある愛情について話したいなあ、と思う。