甘夏edu

育つ、育てる、育む、教育などなど、「育」関連のあれこれについて

怖がる君が怖かった

小学校の頃、O君という同級生がいた。

背が高く、顔立ちがよく、足が速くて喧嘩っぱやい子だった。田舎の小学校の密な人間関係の中では、彼の「喧嘩っ早い」部分だけが完全に浮き上がっていた。女の子たちからはあからさまに嫌われ、男の子の中にも、彼と仲のいい子はいないようだった。

休み時間に階段の方で大声や物のぶつかる音がすると、「ああ、またO君暴れてるわ・・・」と教室内に緊張が走ったし、席替えや班決めをする度に、ひとり残されつつあるO君を見るのは気詰まりだった。わたし自身はO君に対して怖いと思ったことはなかったので、「うちの班おいでよ」と言う時もあったし、そのことをからかわれて面倒になり、声をかけない時もあった。

O君が暴れている時に、「怖いー!!」と言ってきゃーきゃー騒ぐ子たちがいて、わたしは実はその子たちのことが一番怖かった。人のことを、「怖い」と切り捨てられるそのセンスが怖かったのだと思う。それは大人になって、教員になってからも同じで、クラスで揉め事が起きるたびに、おびえたような面白がっているような顔をして事態の推移を見守っている子たちの表情に、どんどん傷ついていった。

ある日、自分の子どもが同じような表情をしていることに気づいた。わたしと言い合いになって、真っ赤な顔をして怒鳴りまくる兄くんのことを、弟くんが、おびえたような、ちょっと笑ったようなあの表情をして見つめている。衝撃だった。

その後、兄くんの怒りは「ニヤニヤして見てるなよ!!」と弟くんに飛び火し、弟くんはあっけなく泣き出した。泣き出した顔をみて、ああ、そうか、と思った。「怖い」と言っていたあの子達、本当に怖かったのかも、と。

怒りはパワーの表出だ。誰かの溢れ出すパワーに対し、やり返すにせよ受け止めるにせよ「受けて立っちゃう」タイプの人と、「かわそうとする」タイプの人っている。かわすタイプの人にとっては、並外れたパワーはそれだけで恐怖かもしれない。本当に怖くて、「怖い怖い」と茶化しながら、必死にシャットダウンしようとしたのかもしれない。

わたしは長いこと、怖がるあの子達が怖かった。あの子たちに「こわーい」と言わせるようなことだけはすまい、と思ってた。でも、わたしは時々失敗した。感情のコントロールが不得手なので、すぐに泣いてしまうし怒ってしまう。みんなが黙り込んでいるような授業で手を上げて、ひとりで熱弁をふるったりもしてしまう。そんな風に、パワーをうっかり出しては、すぐに引っ込めながら生きていた。それが終わったのは、出産後、超パワフルな人たちに、いろんな場所で出会ってからだ。隠してる場合じゃない、全開にしてかないと生き残れないわこれ・・・と思わされた。(思わせてもらえてよかった。)

ちなみにO君は中学校に入ってから人間関係が一新して、もて始めた。相変わらず背が高くて顔立ちがよく、足も速かったけれど喧嘩はしなくなった(そりゃあもてるよな・・・。)O君の周りに確実にあった恐怖や緊張感、嫌悪感のようなものが、気づいたらさっぱりなくなっていて、不思議に思ったのを覚えている。

わたしが怖がっていたものの実体はなんだったんだろう。クラスの女の子たちや、教え子たちや、弟くんを通して現れていたものは。