甘夏edu

育つ、育てる、育む、教育などなど、「育」関連のあれこれについて

理想のテーブル

昼食前のこと。リビングのテーブルでお茶を飲みながら何か書き物をしていた息子に、
「今からそうめんゆでるからそろそろテーブルの上しまってくれる?」
と声をかけた。返事はあったけれどすぐに動く様子はない。

しばらくしてお湯が沸いたのでもう一度声をかけようかな、と思って覗きにいったら、
「そうめんって何分後にできるの?」
と尋ねられた。3分、と答えてから、思いついて「そうめんゆであがったらのびないうちに食べたい」とも伝えた。ひとつ伝えたら他のことも出てくる。

「ゆであがりましたー!ってなった時に、机の上に何もなくて、お皿がどーんと置けたら理想」
「その時にすでにマットもお箸もおかずもセットされてて、はいいただきまーす!みたいな感じだったらさらに最高」

なんだか楽しい気持ちになりつつ伝えたら、息子も明るい声で、
「ぼくはこのお茶飲んじゃいたいから飲んだらすぐやるねー。それで間に合うよね」
と言って、そして、全部やってくれた。(細かいこというと、おかずとお箸のセットはわたしがやるつもりでいたのに、それもやってくれた)

理想のテーブルが出現した(笑)!!

食事を終え、子どもたちは遊びにでかけ、わたしはまだ満たされた気持ちの中にいる。

互いの「こうしたい」が明確に伝わっている安心感がまず心地よかった。わたしのリクエストを気軽に丸ごと受け入れてくれる息子を、寛容だなと思った。そして、「そうめんって何分後にできるの?」「間に合うよね」という言葉からは、「時間」というものさしが、息子の中に育まれてきていていることを感じた。共通言語が増えた感じがする。

小さい子どもには「時間」というものさしがないらしい。時計が読めるようになったとしても、時間配分とか所要時間といったことが意識に入るのはだいぶ後だと聞いたことがある。たしかに、これまでの体験を振り返ってみても、「いついつまでにこれをしたい」みたいなことって、見事なまでに伝わらなかった。

こんな風に「親であるわたしの目からは明白、でもこの子には分からないことだから言えない」と思うようなことって、これまではけっこういろいろあった。でも最近、そういうことがどんどんなくなってきている。

わたしたちが理想のテーブルを一緒につくっていく「仲間」になれるタイミングに、今、来ているんだと思う。