甘夏edu

育つ、育てる、育む、教育などなど、「育」関連のあれこれについて

AIやばい

山手線の中で、「AIやばいよねー」と息子が呟いた。目の前にはAI本の広告。「既にAIはMARCHレベル!!」という煽り文句が躍る。MARCHレベルではあるが早慶レベルではない、という微妙な精度のAIロボットをちょっとだけ思い浮かべながら、何がやばそうなのか聞いてみた。

 

どんどん進化して、いつか世界を支配するんじゃないかと思う、と息子は言った。

 

技術的には可能かもしれないけど、AIは意志をもたないはずだからそれは大丈夫なんじゃないかなあ、とあいまいに答えてみたが、全然腑に落ちないようだった。そりゃそうだ。意志と感情と思考の違いは難しいもの。

 

息子がぱっと納得できる解を思いつかなかったことが心残りで、一日経った今も、わたしはAIのことをなんとなく考え続けている。

 

息子の脳内にあるAIは、わたしの小さい頃か更にもっと前から描かれ続けてきた「わるいロボット」そのもので、大人になったわたしはそれを一笑に伏してもいいはずだ。でも、笑っておしまいにするには、わたしはAIについてあまりに無知だ。

 

AIは本当に「わるいロボット」にはならないのだろうか。そもそも、AIは意志をもたないって本当なんだろうか?本当だとして、わたしはそれをいつ、誰から聞いたのだろう。わからない。

 

そういえば、わたしの小さい頃のやばい方面の未来の話といえばノストラダムスの大予言だった。今の子たちにとってはシンギュラリティが同じ役目を果たしているのかもしれない。ただし、片方は来るはずのなかったもので、もう片方はほぼ確実に来るだろう、ってとこはだいぶ違う。「来たら終わり」だったノストラダムスより、AIに支配されるかもしれない未来の方が「終われない」分何倍も怖い。でも、関わりようがあるところがいい。何百倍も、いい。

 

AIがどんどん賢くなり、汎用化されることで、この先どんな世界がイメージされ得るのだろう。人間はどんな風に生きていくのだろう。そこでは何が幸せで、何が価値になるのだろう。知りたいことがたくさんある。

 

というわけで、子どもも読めるシンギュラリティ関連の本を探してます。悲観的でなく、かつ「人間にしかないのは心だから心を豊かにしましょう」みたいな道徳的なオチがつかないタイプの本、どこかにないかなあ。おススメの本ご存知のかたがいたら教えてください。絶対読みます。

今、日付が変わりました

除夜の鐘を、初めてついた。

 

紅白でユーミン桑田佳祐の往年感に胸を打たれ、すっかり満足してさあ寝ようか、となった時に、 長男が、「じゃあ約束通り(鐘つき)行こうか!」と言い出した。夕食時に、義姉が行ったらいいよーと勧めていたのを思い出したが当の彼女はもう寝ている。寒いんじゃないかとか鍵を開けて行って大丈夫かとか口ではいいながら、なんとなくコートを羽織って外に出てしまった。紅白のせいで高揚していたのだろう。

 

既に鐘は鳴り始めていて、少し小走りになりながらお寺へ向かった。

 

お寺には、住職さんと身内らしき子どもが4人、それと、若者がひとりいた。

 

名乗りもせずにいきなり「次何回目ですかー」とか言いながら鐘つきの列に入っていく長男と、誰、とも聞かずに応じるお寺さんの子たち。子どもの世界は話が早い。

 

住職さんとぽつぽつ言葉を交わしていると、それまで少し離れて携帯を見ていた若者が、にこにこしながら「今、日付変わりました」と言った。

 

見知らぬおばちゃんとおばあちゃん(←住職さん)に向けられたにしては、それは本当に嬉しそうな表情と声色で、彼が新年をわくわくしながら待ってたことがわかった。

 

それから、三人でかわるがわる「おめでとうございます」と言い合った。よく知らない人と交わす新年の挨拶は、なかなか良いものだった。

 

なんとなく弾んだ気持ちになって、わたしは子どもたちの鐘つきの列に入り、60回目の鐘をついた。60、と書かれた手書きの札を取り、焚き火にくべる。火の粉を追いながら夜空に視線を移すと、小さい星が見えた。特別な夜特有の匂いがした。

怖がる君が怖かった

小学校の頃、O君という同級生がいた。

背が高く、顔立ちがよく、足が速くて喧嘩っぱやい子だった。田舎の小学校の密な人間関係の中では、彼の「喧嘩っ早い」部分だけが完全に浮き上がっていた。女の子たちからはあからさまに嫌われ、男の子の中にも、彼と仲のいい子はいないようだった。

休み時間に階段の方で大声や物のぶつかる音がすると、「ああ、またO君暴れてるわ・・・」と教室内に緊張が走ったし、席替えや班決めをする度に、ひとり残されつつあるO君を見るのは気詰まりだった。わたし自身はO君に対して怖いと思ったことはなかったので、「うちの班おいでよ」と言う時もあったし、そのことをからかわれて面倒になり、声をかけない時もあった。

O君が暴れている時に、「怖いー!!」と言ってきゃーきゃー騒ぐ子たちがいて、わたしは実はその子たちのことが一番怖かった。人のことを、「怖い」と切り捨てられるそのセンスが怖かったのだと思う。それは大人になって、教員になってからも同じで、クラスで揉め事が起きるたびに、おびえたような面白がっているような顔をして事態の推移を見守っている子たちの表情に、どんどん傷ついていった。

ある日、自分の子どもが同じような表情をしていることに気づいた。わたしと言い合いになって、真っ赤な顔をして怒鳴りまくる兄くんのことを、弟くんが、おびえたような、ちょっと笑ったようなあの表情をして見つめている。衝撃だった。

その後、兄くんの怒りは「ニヤニヤして見てるなよ!!」と弟くんに飛び火し、弟くんはあっけなく泣き出した。泣き出した顔をみて、ああ、そうか、と思った。「怖い」と言っていたあの子達、本当に怖かったのかも、と。

怒りはパワーの表出だ。誰かの溢れ出すパワーに対し、やり返すにせよ受け止めるにせよ「受けて立っちゃう」タイプの人と、「かわそうとする」タイプの人っている。かわすタイプの人にとっては、並外れたパワーはそれだけで恐怖かもしれない。本当に怖くて、「怖い怖い」と茶化しながら、必死にシャットダウンしようとしたのかもしれない。

わたしは長いこと、怖がるあの子達が怖かった。あの子たちに「こわーい」と言わせるようなことだけはすまい、と思ってた。でも、わたしは時々失敗した。感情のコントロールが不得手なので、すぐに泣いてしまうし怒ってしまう。みんなが黙り込んでいるような授業で手を上げて、ひとりで熱弁をふるったりもしてしまう。そんな風に、パワーをうっかり出しては、すぐに引っ込めながら生きていた。それが終わったのは、出産後、超パワフルな人たちに、いろんな場所で出会ってからだ。隠してる場合じゃない、全開にしてかないと生き残れないわこれ・・・と思わされた。(思わせてもらえてよかった。)

ちなみにO君は中学校に入ってから人間関係が一新して、もて始めた。相変わらず背が高くて顔立ちがよく、足も速かったけれど喧嘩はしなくなった(そりゃあもてるよな・・・。)O君の周りに確実にあった恐怖や緊張感、嫌悪感のようなものが、気づいたらさっぱりなくなっていて、不思議に思ったのを覚えている。

わたしが怖がっていたものの実体はなんだったんだろう。クラスの女の子たちや、教え子たちや、弟くんを通して現れていたものは。

「愛されていない」と君は言うだろう

このところ、兄弟げんかが増えている。

 

そもそも四六時中ずっと絡んでるからなんだろうけど、ちょっとしたことですぐけんかになる。仲裁する気持ちなんてとっくの昔に消え去っていて、わたしは、ふたりのやりとりをただただぼーっと聞いている。

 

互いに投げつけ合っている言葉の行方を追っているとどうやら特徴があって、兄のほうは「いい子ぶってお母さんにとり入るなよ!」というところに、弟のほうは「ぼくのことをばかにするなよ!」というところに、だいたい行き着いていることに気づく。兄のほうには「のけものにされる」、弟のほうには「小さく扱われる」ことへの恐れがあるんだなあ、と思う。ちなみにこれは、兄弟げんか以外でも何かと発動する。叱られた時とか、何かがうまくいかない時とか。

 

リスニングや場づくりの勉強をしている時に、人は「わたしはこうだ」とか「いつもこうなる」みたいな思い込みを持っている、ということを学んだ。思い込み、とか信念、とかメンタルモデル、とか、いろんな名前がついている。

 

それらはだいたい過去の体験から来るもので、かなり小さい頃の体験が根っこにあることも多い。小さい頃の体験なんて主要な登場人物が限定されているもので、メンタルモデルについて語る人が「母に愛されてなかったんだ」という話をする場面に、何度も遭遇した。だいたい犯人はお母さん、ついでお父さんだ。

 

兄弟のことに話を戻せば、ふたりの中にはすでに、「ぼくはひとりぼっちだ」「ぼくは小さく扱われる」といった思い込みが着々と育っているのを感じる。「この子とは関わりたくない」とか「この子は取るに足らない存在だ」なんて風に思ったことはもちろんないけれども、でも、彼らがそう思うに至った出来事については身に覚えがありすぎる。

 

母であるわたしは、きっといろいろやらかしている。「自立してるなあすばらしい」とか「ピュアだなあ素敵」みたいな感嘆や愛情からやらかしていることもあるだろうし、ただたんに配慮が足りなくてやらかしていることもあるだろう。「この子はこうだよな」という決めつけだってたくさん持っている。まあ、それは仕方ない。不完全ながらも精いっぱいやってるのでご容赦ください、というしかない。

 

いつか彼らも、自分の中の思い込み(or信念orメンタルモデル)と向き合うことがあるかもしれない。わたしの知らない誰かの前で「ぼくはお母さんに愛されてなかった」とか、話すのかもしれない。おいおい勘弁してくれよ、という気持ちもあるけれど、「まあ、好きなように使っていいよ」という気持ちもある。

 

もし彼らが勇気を出して、「お母さんぼくのことどう思ってる?」って尋ねてくれる日がきたら、その時には思いっきり、自分の中にある愛情について話したいなあ、と思う。

時間もお金もありゃしない

そういえばここ5年くらいずっと、「時間がない」or「お金がない」ばっかり言ってるなああたし、と唐突に気づいた。

 

ないことに気づいたわけではなくて、どちらかというと、

「前はそんなことなかったのになー」

という感慨(慨嘆?)だ。若い頃は(って言っちゃうけど)、時間もお金もそんなに気にしたことがなかったように思う。

 

「前」の10年間を、わたしはほぼ、公立学校の教員として過ごしていた。予算は消化するものであり、給与は振り込まれるものであり、もらった分を使う暇はなかった。

忙しいという感覚はなかった。7時出勤20時退勤、家帰ってご飯作って食べて明日の授業の準備してお風呂はいって寝るという、ソフト軟禁みたいな生活だったからかもしれない。やり残したことがあっても、次の日に起きてまたやればよかった。他にやることがないってシンプルだ。

別に高い給料ではなかったが、使わないので貯金ばかりが増えていった。行きたいところもほしいものも思い浮かばなかった。ソフト軟禁みたいな生活だったからだきっと。

 
でも、社会人としてのスタート期をそんな風に過ごしたことで、わたしは「時間」と「お金」との付き合い方を学び損ねてしまったのかもしれない。


10年経って、わたしは転職をし、子どもをもった。収入も可処分時間も減った。でも、それはたぶん、時間やお金が「ない」と思うことの、ほんとうの理由じゃない。

どうも、目的のもとに時間やお金を使う、という意識が薄い。何かを得た、という感覚も薄いまま、なんとなく時間を過ごしてしまう。なんとなくお財布が空になってしまう。そんなことを繰り返している気がする。40過ぎて子どももいてこんなこと言ってるのほんとやばいとしか言いようがないんだけど、でも事実・・・。

恐ろしいことに、こんなわたしが家計を担当している。が、こっちはこっちで「逆に怖くて使えない」ほうに振り切れてしまっている。どちらにしてもあんまり上手な使い方とは言えない。

 
もうちょっと、時間とお金を自由に使えるようになりたいなあ、と思う。好き放題のほうの自由じゃなくて、「自らを由とする」ほうの。自在に、という感覚が近いか。

今、時間面でもお金の面でも割と、キャパオーバーかつゲームオーバー間近みたいな感じになってて、だから気づいたのだ。

「いいかげん学ぼうか!」という、合図なのかもしれない、これは。

 

コンプレックスとは限らない

先日のこと。

長男の塾へ、次男を連れて迎えに行った。次男は、友達と一緒に降りて来た長男を見つけるなり駆け寄っていった。

しばらくして、長男がにこにこしながら近くに来て

「みんなが初めてぼくの弟を見た感想、」

という。なになに、というと、

「身長差がないって〜!」

と言って、また友達のほうに戻っていった。

そういえば、先日も、同じようなことがあった。


ボディケアの専門家のかたに会う機会があり、「こうするともっと背が伸びますよ」というお話にわたしがくいついた瞬間、横にいた長男が「あ、でもぼくは、小さいのがむしろ魅力だと思ってるんですよね」と言ったのだ。

そこだけやけに敬語で「ご親切はいたみいりますが」みたいなトーンだったので、わたしたちも「あ、余計なことでしたねすみません・・・」となり、一方でそのあと(でも本当はどう思っているのかなあ)とちょっと気になっていたのだった。

あれ、やっぱり本当だったんだな、と思った。

たしかに本人から、「背が低いのが気になっている」と聞いたことは一度もない。「言わないけど、本当は気にしているだろう」と、わたしが思い込んでいたのだ。

そういえばわたし自身も小さい頃から低身長だったけど、そのことを気にしたことはない。それなのにそんな風に思い込んでいたのはたぶん、彼が男の子だからだ。

背は低いよりも高いほうがいいと思うに決まっている、とか、男の子は特にそう思うはず、とか、自分の中にある勝手な思い込みに気づかされる、ふたつの出来事だった。

 

ちなみに長男は、友達に「チビ」と言われてよく怒っている。でもあれはあくまで、相手の失礼さとしつこさについて怒っているのだろう(そういえばよく「しつこい!」と言っている)。「身長差がない!」みたいなニュートラルな驚きの言葉だったら普通に受け取るし、一緒に面白くなってしまう、そういうところが彼にはある。他人の認知と自分の認知がしっかり区別されている。

背が低いことが、思春期前期の男の子にとってコンプレックスになるとは限らない。そのことを他人に指摘されたって、それがコンプレックスにつながるとも限らない。「自分は自分」がしっかりしている息子の世界は、自由で広々としているな、と思う。

「相談」に応えるということ

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鴻上尚史さんによる、この文章を読んだ。「同調圧力」と「自己肯定感」の問題が、「帰国子女で華やかな服装を好む娘が、クラスで浮いてしまっている」という相談に対する「回答」として綴られている。とても面白かった。

同調圧力の強さと自己肯定感の低さを「日本の宿痾」だとし、「娘さんが戦っているのは日本そのものだ」というその文章を読んで、自分の中の「同調圧力」と戦った記憶が、少し成仏したような気がした。

だが、その後に続く「だからこうしたらいいですよ」という具体的なアドバイスの部分が、わたしには腑に落ちなかった。あーこれ、いじめの相談した時の中3のクラス担任と同じアドバイスだ・・・と思った。(アドバイスのうちひとつはまったく同じで、もうひとつは言葉は違うけれど示す方向はだいたい同じだった)

問題を「要するにこういうことなんですよ」と構造化し、「非はあちらにある」と同調するようなスタンスも取る。そこまではいい。ところがアドバイスになると一転して「まあうまくおやりなさい」といった話になってしまう。

わたしの担任はたしか、「相手より大人でいなさい」と言った。中学生だったわたしは、それを正しいと思って一所懸命大人のふりをして、内心ではめちゃめちゃ傷ついていた。「あんな幼稚な子達のすることを相手にする必要はない」といった担任の言葉におおむね賛成しつつも、「とはいえしんどいっすよー」っていう気持ちの方も、誰かに聞いて欲しかったのだ。


おそらく、方法としては本当に「正しかった」のだと思う。真正面からぶつかることはなく、自分の尊厳もなんとなく保てる。制限つきだけど。だからつい納得してしまった。でもそういう「正しさ」が救いにならない場合もあるということを、わたしはその体験を通して知った。

わたしだったらその「相談」にどう答えるだろう。答えるよりまず、もうちょっと聴くかな。そこにある気持ちについて。
・自分の個性を表現したい
・浮いてしまうのが怖い
というのがその「相談」の中には出ていたけれど、実際には他にもたくさんあると思う。例えばだけど、「こんなことで騒ぐなんてばかじゃないのって思ってる」とか「派手に思われることには快感もある」とか(例えばだけど)。そういうのをいっぱい出してみて、ひとつひとつ、「あーたしかにそんな風に思ってるよねえ」って、一緒にたしかめてみたい。ストラテジーの検討の前に。

もちろん、鴻上さんの「人生相談」は紙上相談のスタイルなのでそんなことはできない。「聴く」の部分を、最大限の想像力をもって行い、できる限り具体的な答えを示したのだろう。だからこそ、わたしは引き込まれて一気読みした。わたしだったらとてもじゃないけどこんなに鮮やかに答えられない。当たり前だけど。

でも、だからこそ、「紙上」じゃない形で人の相談を受けることの多いわたしは、「もうちょっと聴いてみる」を大切にしたいなあ、と、改めて思っている。