甘夏edu

育つ、育てる、育む、教育などなど、「育」関連のあれこれについて

時間もお金もありゃしない

そういえばここ5年くらいずっと、「時間がない」or「お金がない」ばっかり言ってるなああたし、と唐突に気づいた。

 

ないことに気づいたわけではなくて、どちらかというと、

「前はそんなことなかったのになー」

という感慨(慨嘆?)だ。若い頃は(って言っちゃうけど)、時間もお金もそんなに気にしたことがなかったように思う。

 

「前」の10年間を、わたしはほぼ、公立学校の教員として過ごしていた。予算は消化するものであり、給与は振り込まれるものであり、もらった分を使う暇はなかった。

忙しいという感覚はなかった。7時出勤20時退勤、家帰ってご飯作って食べて明日の授業の準備してお風呂はいって寝るという、ソフト軟禁みたいな生活だったからかもしれない。やり残したことがあっても、次の日に起きてまたやればよかった。他にやることがないってシンプルだ。

別に高い給料ではなかったが、使わないので貯金ばかりが増えていった。行きたいところもほしいものも思い浮かばなかった。ソフト軟禁みたいな生活だったからだきっと。

 
でも、社会人としてのスタート期をそんな風に過ごしたことで、わたしは「時間」と「お金」との付き合い方を学び損ねてしまったのかもしれない。


10年経って、わたしは転職をし、子どもをもった。収入も可処分時間も減った。でも、それはたぶん、時間やお金が「ない」と思うことの、ほんとうの理由じゃない。

どうも、目的のもとに時間やお金を使う、という意識が薄い。何かを得た、という感覚も薄いまま、なんとなく時間を過ごしてしまう。なんとなくお財布が空になってしまう。そんなことを繰り返している気がする。40過ぎて子どももいてこんなこと言ってるのほんとやばいとしか言いようがないんだけど、でも事実・・・。

恐ろしいことに、こんなわたしが家計を担当している。が、こっちはこっちで「逆に怖くて使えない」ほうに振り切れてしまっている。どちらにしてもあんまり上手な使い方とは言えない。

 
もうちょっと、時間とお金を自由に使えるようになりたいなあ、と思う。好き放題のほうの自由じゃなくて、「自らを由とする」ほうの。自在に、という感覚が近いか。

今、時間面でもお金の面でも割と、キャパオーバーかつゲームオーバー間近みたいな感じになってて、だから気づいたのだ。

「いいかげん学ぼうか!」という、合図なのかもしれない、これは。

 

コンプレックスとは限らない

先日のこと。

長男の塾へ、次男を連れて迎えに行った。次男は、友達と一緒に降りて来た長男を見つけるなり駆け寄っていった。

しばらくして、長男がにこにこしながら近くに来て

「みんなが初めてぼくの弟を見た感想、」

という。なになに、というと、

「身長差がないって〜!」

と言って、また友達のほうに戻っていった。

そういえば、先日も、同じようなことがあった。


ボディケアの専門家のかたに会う機会があり、「こうするともっと背が伸びますよ」というお話にわたしがくいついた瞬間、横にいた長男が「あ、でもぼくは、小さいのがむしろ魅力だと思ってるんですよね」と言ったのだ。

そこだけやけに敬語で「ご親切はいたみいりますが」みたいなトーンだったので、わたしたちも「あ、余計なことでしたねすみません・・・」となり、一方でそのあと(でも本当はどう思っているのかなあ)とちょっと気になっていたのだった。

あれ、やっぱり本当だったんだな、と思った。

たしかに本人から、「背が低いのが気になっている」と聞いたことは一度もない。「言わないけど、本当は気にしているだろう」と、わたしが思い込んでいたのだ。

そういえばわたし自身も小さい頃から低身長だったけど、そのことを気にしたことはない。それなのにそんな風に思い込んでいたのはたぶん、彼が男の子だからだ。

背は低いよりも高いほうがいいと思うに決まっている、とか、男の子は特にそう思うはず、とか、自分の中にある勝手な思い込みに気づかされる、ふたつの出来事だった。

 

ちなみに長男は、友達に「チビ」と言われてよく怒っている。でもあれはあくまで、相手の失礼さとしつこさについて怒っているのだろう(そういえばよく「しつこい!」と言っている)。「身長差がない!」みたいなニュートラルな驚きの言葉だったら普通に受け取るし、一緒に面白くなってしまう、そういうところが彼にはある。他人の認知と自分の認知がしっかり区別されている。

背が低いことが、思春期前期の男の子にとってコンプレックスになるとは限らない。そのことを他人に指摘されたって、それがコンプレックスにつながるとも限らない。「自分は自分」がしっかりしている息子の世界は、自由で広々としているな、と思う。

「相談」に応えるということ

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鴻上尚史さんによる、この文章を読んだ。「同調圧力」と「自己肯定感」の問題が、「帰国子女で華やかな服装を好む娘が、クラスで浮いてしまっている」という相談に対する「回答」として綴られている。とても面白かった。

同調圧力の強さと自己肯定感の低さを「日本の宿痾」だとし、「娘さんが戦っているのは日本そのものだ」というその文章を読んで、自分の中の「同調圧力」と戦った記憶が、少し成仏したような気がした。

だが、その後に続く「だからこうしたらいいですよ」という具体的なアドバイスの部分が、わたしには腑に落ちなかった。あーこれ、いじめの相談した時の中3のクラス担任と同じアドバイスだ・・・と思った。(アドバイスのうちひとつはまったく同じで、もうひとつは言葉は違うけれど示す方向はだいたい同じだった)

問題を「要するにこういうことなんですよ」と構造化し、「非はあちらにある」と同調するようなスタンスも取る。そこまではいい。ところがアドバイスになると一転して「まあうまくおやりなさい」といった話になってしまう。

わたしの担任はたしか、「相手より大人でいなさい」と言った。中学生だったわたしは、それを正しいと思って一所懸命大人のふりをして、内心ではめちゃめちゃ傷ついていた。「あんな幼稚な子達のすることを相手にする必要はない」といった担任の言葉におおむね賛成しつつも、「とはいえしんどいっすよー」っていう気持ちの方も、誰かに聞いて欲しかったのだ。


おそらく、方法としては本当に「正しかった」のだと思う。真正面からぶつかることはなく、自分の尊厳もなんとなく保てる。制限つきだけど。だからつい納得してしまった。でもそういう「正しさ」が救いにならない場合もあるということを、わたしはその体験を通して知った。

わたしだったらその「相談」にどう答えるだろう。答えるよりまず、もうちょっと聴くかな。そこにある気持ちについて。
・自分の個性を表現したい
・浮いてしまうのが怖い
というのがその「相談」の中には出ていたけれど、実際には他にもたくさんあると思う。例えばだけど、「こんなことで騒ぐなんてばかじゃないのって思ってる」とか「派手に思われることには快感もある」とか(例えばだけど)。そういうのをいっぱい出してみて、ひとつひとつ、「あーたしかにそんな風に思ってるよねえ」って、一緒にたしかめてみたい。ストラテジーの検討の前に。

もちろん、鴻上さんの「人生相談」は紙上相談のスタイルなのでそんなことはできない。「聴く」の部分を、最大限の想像力をもって行い、できる限り具体的な答えを示したのだろう。だからこそ、わたしは引き込まれて一気読みした。わたしだったらとてもじゃないけどこんなに鮮やかに答えられない。当たり前だけど。

でも、だからこそ、「紙上」じゃない形で人の相談を受けることの多いわたしは、「もうちょっと聴いてみる」を大切にしたいなあ、と、改めて思っている。

子どもの作文をみる時に大事にしたいこと

先日、帰省した際に姪っこの読書感想文をみた。(lookのほうではなく、指導?手伝い?あれ、なんていうんだろう・・・。)

やってみて改めて思ったんだけど、作文のワークシートによくある「この物語の主題はなんですか」って、子どもにとっては本当に答えにくい質問だ。(「一番大事だと思った部分は」とか、「筆者が一番言いたいことは」とかも同様。)

子どもたちはそもそも、筆者に「言いたいこと」があると思って読んでないし、主題がどう、とかも思って読んでない。「一番」だってなかなか決められない。適当に選ぶことができなくていちいち真面目に考えてしまうタイプの子どもならなおさらだ。(そして姪っこはまさにそのタイプ・・・)

だいいち、「感想」というのは、あの場面でびっくりして、この場面では主人公がかわいそうだと思って、その場面では面白くて笑った、というようなことだろう。ならば、「感想文」だって、それを書けばいいんじゃないか。

「この場面で悲しくなった」「ここの場面は笑っちゃった」というようなことを、意味の通る文章で書ければまずはオッケーだし、「そう感じた理由や背景」がつけられたら上出来だ。「主題」なんて、明らかに周りの大人から借りてきたような、実感の薄い言葉はいらないと思う。

少なくとも、「読み取り」ではなくて「親しむ」ことを目的とした読書感想文において、子どもに「主題」を問うのは酷だ。できないからではなくて、そういうやり方を覚えさせてしまうことが、酷だと思う。

姪っこが選んだ本は「しあわせになったすてねこ」という、捨て猫保護活動のノンフィクションだった。保護活動の価値と一緒に、里親詐欺や殺処分といった暗い側面についても触れられている。ところが彼女は、なんと、その暗い部分を丸ごと読み飛ばしていた。こうなると、主題も何もない(笑)。
彼女は、読み飛ばしたわけを「こわかったから」と言った。それを聞いて、彼女が感じていたその「こわさ」のほうを言葉にしていくことが、「作文」というものの目的なのではないか、と思った。

「主題は何?」というテスト問題みたいな問いの答えよりも、どの場面でどんな風に心が動いたか、そしてそれはあなたにとってどんな体験だったのか。それを、わたしは、読みたい。

陰謀論とか黒幕説とか。

完全に息子用に買った「陰謀の日本中世史」(呉座勇一著)が面白い。歴史上の俗説通説(多くが陰謀論に紐づいている)に、歴史学の視点からひとつひとつツッコミを入れていく、という、地味〜な労作。


トンデモ科学同様、トンデモ史観というのも確実にあって、その構造も受容のされ方もほんとうに似てると感じる。「・・・って解釈するとすっきりするでしょ?だってこれが隠された真実だからなんだよ〜」みたいな話。でも、たいていの歴史的事件はいくつもの真実から成り立っているし、すべてを握る黒幕なんて存在しない。いろんな人たちの利害や思惑が絡んで、お互いに予想もしていなかった展開も含みながら進んでいくのが歴史なんだということを、この本は教えてくれている。


黒幕説や陰謀論が盛んになる裏には、「自分が圧倒的に損をしている」「裏でものすごく得をしている人がいる」という類の絶望があるんだと思う。なんとはなしの不平等感、不公平感、本来こうじゃないはず感。

でも、そういった絶望から自分を救うのは、「陰謀論」に加担して顔の見えない他者に責任を転嫁していくことではなく、わかりにくいこと、すっきりしないことから逃げずにきちんとした手続きをふんで調べたり考えたりし続ける、知的な体力なんだと思う。自分を「力をもたない被害者」に置いちゃったらだめだし、そうしないために、学問って有効だ。


中3の時の担任が「騙されないために勉強しろ!」ってよく言ってたけど、あれ、先生いいこと言ってたなあ。(もう一つ、「毒かどうかはちょっとなめてみろ、しびれたらやめろ」という使いどころがわからない名言がある笑)


まあそんな固い話は置いといても、「源頼朝源義経は不仲だった」とか「関ヶ原の戦い徳川家康の謀略」ってふつうに思ってる人、ぜひぜひ読んでみて!(雑)(地味って言ったけどビジュアルイメージはどうしたんだっていうくらい派手だったw)

天狼院スピードライティングの学びを子どもの自由研究に使った話

「天狼院スピードライティング講座」を受講した。

Facebookにたびたび上がってくるので気になっていて、勢いに任せて申し込んだのが6月。講座に行き損ね、オンラインの実況中継も見損ね、後日動画もシェアされていたのにそれすら見そびれて、昨日になってようやく見た。1ヶ月をゆうに越えての受講。「そりゃあスピード必要だろうねえ」というしかない状態である。


実は振り込んだお金を半ば捨てたつもりでいたのだけど、昨日突然「見るなら今。今しかない」と思った。それで、息子の塾の近くのファミレスで、お迎え時間までの間に一気に見た。もともと60パーセントしかなかった携帯の電池の残量が、終わる頃にはわずか4パーセントになっていた。

動画の内容について書くのは控えるけど、全編を通して刺さりまくる内容だった。早く書くことで得られること、書かない人がする言い訳、自分を「書ける状態」におくことについての責任。そのいくつかは、わたし自身も体験したことのあるものだった。プロの言葉で語られるそうした話のひとつひとつが、だらだらと動画視聴すら先延ばしにしてきたわたしを刺し、一方で元気づけてもくれた。早く書くための具体的でシンプルな工夫がたくさん聞けたのもよかった。


「わたしにもできるかもしれない」

そんな風に思って翌日の今日。わたしは得た学びを、自分のライティングよりも前に、息子の自由研究ライティングに使ってしまった(笑)。

早く書くことで得られること、書かない人がする言い訳、自分を「書ける状態」におくことについての責任。それに加えて、早く書くための具体的でシンプルな工夫。昨日聞いたばかりの話を得々としてシェアし、「じゃあ書いてごらん」と言ったら、息子は本当に「日光東照宮」についてのまとめ1000文字を1時間ちょっとで書き終えてしまった。
わたしはその横で、自分の原稿3000字を45分で書いた。

書き終えてから、「すごかったねえ」と、息子と驚きあった。文字数も(自分比で)だが、ひとことも口を聞かずに集中して書きまくった、その感覚は未知のものだったし、息子とそれを分かち合えた感じがした。

今、息子は夕方のお楽しみテレビを見ているところだ。彼はもう夏休みの宿題をあらかた終えてしまった。傍でこれを書いているわたしの中には、子どもと面白いことを分かち合えた喜びと一緒に、いや本当はこれを使ってもっとがりがり仕事したいんだなあたし、という気持ちとが、両方ある。

子どもと一緒の夏休み、残り25日。


街角の夏休み

子どもたちの夏休みに突入して3日目の平日。
彼らは午前中は家で過ごし、午後から児童館や図書館に出かけていく。バスに乗れば気に入りの小さい科学館もある。夏休みをきっかけに、自分たちの足ででかけられる先が増えそうだなと期待している。こういうところが東京のありがたいところだ。ちょっとした居場所がいっぱいあるのだ。

親子で幾度となく訪れたこうした場所を、子どもたちだけで利用するようになってきていることも、ちょっと感慨深い。一緒にでかけて、隣でちょこちょこと仕事を進めるのも、案外楽しかったりする。

今日は、次男の音楽教室の後、待ち合わせて駅併設のテラスで夕涼みをした。子どもたちはジュースで、わたしはビール・・・を飲みたいところだったけど併設のコンビニはアルコール類がなかったので、炭酸水で。空が見えて、夕方の雑踏も少し遠く、気持ちのいい時間を過ごした。こういう「半分外」みたいなところも、東京には案外たくさんある。

子ども達とまったり過ごすなら家の外がいい。場所が変わると、ふだんは聞かないような話が出てきたりする。今日はふたりともお稽古デイだったので、それぞれの習っているバイオリンと将棋の共通点・相違点についてふたりでもこもこと楽しそうにしゃべっていた。幼くても自分なりの視点をもって物事を捉えているし、それを伝えるのが楽しくてしかたないみたい。わたしも一瞬「おしゃべり仲間」になったような気がする。風通しがよく、広々としている。親と子の関係性をつかの間越えさせる力が、「夕方」という時間帯や、「半分外」のような場所にはあると思う。


この夏休み、もし煮詰まるようなことがあったらどんどん外に出よう。夏の終わりには、いろんな街角に、新しい「ちょっとした居場所」がたくさんできているといいと思う。