甘夏edu

育つ、育てる、育む、教育などなど、「育」関連のあれこれについて

お母さんの笑顔は家族の笑顔・・・的な

「お母さんの笑顔は家族の笑顔」的なフレーズを、ここ1ヶ月で何回か聞いた。

この言葉、これまでも何度となく聞いてきている。聞くたびに、まあ間違っちゃいないんだろうけど、なんだかなあ、という気持ちになる。

数回聞くうちに、あることに気づいた。「お母さん」非当事者は、この話を「お母さんが笑ってることが大事だから、もっと自分が楽しいことをしていいんだよ」という文脈で語る。一方で、「お母さん」当事者は、「だから笑顔でいられるように(気持ちの安定を)頑張ろう」という文脈で語る。

同じ言葉が、まったく別の話になっている。

自由とか喜びについての話をしているつもりでも、それを家族が笑顔でいるための手段または条件として語ってしまうことで、受け取り手は「喜怒哀楽を隠して笑顔でいるべきだ」的な話として受け取ってしまう。この行き違いには、ちょっと注意が必要だと思う。

自分が楽しいことをするのに、本来理由はいらないはずだ。けれど、理由もなく「ただ楽しいことをする」に許可が出せない感覚が、両方にあるのかもしれない。し、それは「お母さん」だけじゃなく、いろんな人にあてはまるのかもしれないなあ、と思う。

わたしは、誰のためとかじゃなくて、笑いたい時に笑いたいし、それと同じように、怒りたい時には怒りたい。好きなことをする時も、好きじゃないけどする時も、自分が決めた、と思ってやりたい。

麦わらのかごを手放して百均のトレイに代えた話

台所に、ジップロックや使用前のスポンジ、ラップなどをしまうかごを置いていた。

 そのかごを、わたしはたしか就職してすぐの頃、下北沢の雑貨屋で買った。麦わら帽子に似た材質のそれは、中にものを入れるとぐにゃりと形を変える。割とすぐに自立しなくなったので、棚にもたせかけるようにして使った。柔らかすぎて中のものを出したり入れたりがしにくいので、かごの中はいつもなんとなくごちゃついていた。でも、遠目でみれば、雑誌で紹介されてる素敵な台所みたいに見える(ような気がする)ので、使い続けた。不便さには目をつぶった。

ある日唐突に、限界が来た。ジップロックの箱、ラップの筒、スポンジ・・・四角い形のそれらを四角いケースにきっちり納めたい衝動にかられ、手元にあった書類整理用のA4ケースに詰めかえてみる。すると、それまで、かごの形に合わせて変形したり端っこが折れ曲がったりしていた物が、ぴったり収まった。すっきりした。この快適さを、わたしはかなり長いこと我慢していたのだった。

雑貨を扱う本や雑誌は、すぐに古くなるプラスチックよりも、だんだん味わいが出てくる天然素材を推奨する。でも、実家の納戸に入れば百均のプラスチックかごが10年、20年選手で並んでいたりすることを、わたしは知っている。よいものを長く使うのはもちろん素敵だ。しかし、安くてカジュアルなものを長く使うのも、それはそれでけっこう味があると、わたしは思う。

百均のケースは、わたしの生活に機能性と気軽さをもたらしてくれた。かごの方は、ご近所への買い物かごとして使うことにした。(本来の用途に戻った、といえるかもしれない。)そしてわたしは、自分が百均のかごを無造作にチョイスするおばちゃんになりつつあることを、寂しくも、楽しくも感じているところだ。


図書館通い

久々に近所の図書館へ行って、本を借りてきた。

・小説2冊(よしもとばなな司馬遼太郎
洗顔だけで美肌になれる本
無印良品IKEAのグッズで整理収納する本
・白氏文集

ザッピングするような感覚で館内を巡って手に取った本は、わたしの今の脳内を表しているようだ。興味関心の方向がみごとにとっ散らかっている。

読んでみたって美肌にはならないかもしれないし(実際なったためしはないし)、IKEAは遠くて行かないかもしれない(行っても何を買えばいいのか分からないまま帰ることになるような気がする)。それでも、ちょっと見てみたい何か、可能性のようなものがどんな本の中にもある。図書館はそれを無造作に試せるところがいいと思う。

図書館からはそのまま公園に出られるようになっていて、のんびり歩きながら帰った。時々ベンチに座ってぱらぱら本をめくったり、空や樹木を眺めたりしながら、自分が満たされていると感じる。日曜の夕方にひとりでいること、帰れば家族の日常があること、バッグの中に、まだ読んでいない本が入っていること。

家に着く頃にはすっかりわくわくした気持ちになっていた。図書館を巡る小さな出来事が、わたしを、確かで温かい日常の方へと、少し押し出してくれた。

理想のテーブル

昼食前のこと。リビングのテーブルでお茶を飲みながら何か書き物をしていた息子に、
「今からそうめんゆでるからそろそろテーブルの上しまってくれる?」
と声をかけた。返事はあったけれどすぐに動く様子はない。

しばらくしてお湯が沸いたのでもう一度声をかけようかな、と思って覗きにいったら、
「そうめんって何分後にできるの?」
と尋ねられた。3分、と答えてから、思いついて「そうめんゆであがったらのびないうちに食べたい」とも伝えた。ひとつ伝えたら他のことも出てくる。

「ゆであがりましたー!ってなった時に、机の上に何もなくて、お皿がどーんと置けたら理想」
「その時にすでにマットもお箸もおかずもセットされてて、はいいただきまーす!みたいな感じだったらさらに最高」

なんだか楽しい気持ちになりつつ伝えたら、息子も明るい声で、
「ぼくはこのお茶飲んじゃいたいから飲んだらすぐやるねー。それで間に合うよね」
と言って、そして、全部やってくれた。(細かいこというと、おかずとお箸のセットはわたしがやるつもりでいたのに、それもやってくれた)

理想のテーブルが出現した(笑)!!

食事を終え、子どもたちは遊びにでかけ、わたしはまだ満たされた気持ちの中にいる。

互いの「こうしたい」が明確に伝わっている安心感がまず心地よかった。わたしのリクエストを気軽に丸ごと受け入れてくれる息子を、寛容だなと思った。そして、「そうめんって何分後にできるの?」「間に合うよね」という言葉からは、「時間」というものさしが、息子の中に育まれてきていていることを感じた。共通言語が増えた感じがする。

小さい子どもには「時間」というものさしがないらしい。時計が読めるようになったとしても、時間配分とか所要時間といったことが意識に入るのはだいぶ後だと聞いたことがある。たしかに、これまでの体験を振り返ってみても、「いついつまでにこれをしたい」みたいなことって、見事なまでに伝わらなかった。

こんな風に「親であるわたしの目からは明白、でもこの子には分からないことだから言えない」と思うようなことって、これまではけっこういろいろあった。でも最近、そういうことがどんどんなくなってきている。

わたしたちが理想のテーブルを一緒につくっていく「仲間」になれるタイミングに、今、来ているんだと思う。

しずくがこぼれ落ちるように

人が変化する瞬間が好きだ。

たとえば、跳び箱が飛べるようになる。ずっと指が回らなかったパッセージが弾けるようになる。考え続けてたことが、ふっと「わかる」。お互い緊張して固くなってた会議の空気が、ゆるんで流れ出す。そういう瞬間にたくさん出会いたい。

それは、しずくがギリギリまでふくらんで、ぽたっとこぼれ落ちるのに似ている。ひとつの状態が満ちて、次に行く。自然のままにしていても進んでいくけれど、風が吹いて枝が揺れるように、外からの刺激がきっかけになったりもする。そうやってわたしたちは日々、満ちてはこぼれ続けているのだと思う。

数年前、祖母が他界した時にもそれを感じた。自宅で最期を迎えた祖母は、その2日前から食事をとらなくなった。話さなくなった。目をあけなくなった。そうやって少しずつ、祖母は次のフェーズへと移行していった。

こうした変化の連続を「育つ」ということもできるだろう。衰えていくことも含めるならば、わたしたちは生涯を通じて育ち続ける。

日々育ってゆくわたしたちの、変化の瞬間をとらえたり、そこにある秘密を考えたりするために、このブログを使っていきたいと思います。